埼玉県を経営基盤とする東武鉄道と西武鉄道

経営

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埼玉と東京を結ぶ鉄道会社を代表するのは、東武鉄道と西武鉄道の2社ですが、会社の規模は比較的近く、沿線住民を東京へ輸送することで、会社を発展させてきました。

東武鉄道は、東京と繊維産業が盛んだった群馬・栃木の両毛地域を結ぶことを目的として、1897年に設立され、1899年8月27日に北千住ー久喜間が開通します。以降、東武鉄道は少しづつ路線網を拡大していきますが、経営状況が良くなかったため、東武鉄道を再建するために、鉄道王と呼ばれた根津嘉一郎が、1905年に初代社長に就任しました。三菱3号館にあった本社を家賃の安い事務所へ移転し、高利の借り入れを低利に切り替え、社債を発行するなど、徹底した減量経営に努めました。根津嘉一郎は山梨県出身で、同郷の先輩実業家である若尾逸平から薫陶を受けており、若尾は「あかり」と「のりもの」は時代が変わっても、絶対に需要がなくならないビジネスだと説いており、根津嘉一郎が東武鉄道の社長を引き受けた背景には、若尾の思想が大きく影響していました。

日光線

社長に就任した根津は、経営刷新を図るためにとともに、機業地の足利・伊勢崎への乗り入れこそが東武鉄道の生命線と考え、線路を東京から北へ伸ばしました。1910年には、伊勢崎線が全通し、同時に根津嘉一郎は、観光需要を取り込むべく、お雇い外国人に人気の保養地になっていた日光への進出も模索しました。

日本初の地下鉄車両東京地下鐡道1000形

根津嘉一郎は、地下鉄の父と言われている早川徳次の支援も行い、東武鉄道だけでなく、日本で初めて地下鉄を運営した鉄道事業者でもある東京地下鐡道(現在の東京メトロ)の社長も務め、鉄道事業者だけでも20社近く経営に参画していました。鉄道事業者以外にも、日本麦酒鉱泉(現在のアサヒビール)や富国徴兵保険(現在の富国生命)の経営に参画し、古美術品に関心を寄せ、日本・東洋の古美術品コレクションの収集に力を入れていました。

日光線の特急列車

1929年10月1日に日光線杉戸(現在の東武動物公園)ー東武日光間が全線複線電化で開通し、同年の10月10日から、浅草ー東武日光間で特急列車の運転を不定期で開始しました。これにより、東京と日光の日帰り往復が可能になりましたが、客が日帰りすると日光は衰退すると日光東照宮をはじめ、地元から反発されてしまいました。そう危惧する地元に対して、根津嘉一郎は「私が鉄道を敷いた以上、2倍、3倍のお客を持ってきます」と理解を求め、根津嘉一郎の読み通り、利便性が向上したことで、東京からの観光需要を取り込み、東武鉄道は増収を図ることが出来ました。

その後、根津嘉一郎は1940年1月4日に79歳で亡くなりましたが、長男の藤太郎が後を継ぎ、藤太郎は二代目根津嘉一郎を襲名し、1941年に東武鉄道社長に就任します。中小私鉄を買収・合併し、路線網を拡大させ、東武鉄道は関東の雄の鉄道に成長しました。その一方で、第二次世界大戦により沿線に軍関係施設や軍需工場が多かったため、運転頻度を高くすることが求められ、日光線合戦場ー東武日光間は政府から不要不急と判断されました。そのため、1943年から順次、複線だった日光線の線路は資材供出のために単線化され、供出されたレールやマクラギは熊谷線で使用し、越生線も不要不急との理由から、全線が営業休止となり、1944年には東武鉄道が運転していた特急列車は、全て運転を休止し、翌年には全列車が普通列車に格下げされ、列車はやっと運転しているような状況でした。敗戦後の1945年に、日本の鉄道は進駐軍の管理下に置かれ、館林駅・西小泉駅・朝霞駅・練馬信号場は、連合軍総司令部の下部機関で、鉄道組織を監督するRTOが設置されました。RTOにより、国鉄を含む国内の鉄道事業者は、自分たちの裁量で列車を運転することが難しくなったため、日光は進駐軍兵士に人気の観光地で、1948年になるとほぼ毎週末にわたって、浅草ー東武日光間で連合国軍専用列車が運転され、東上線では、黒人兵が運転士に対して「デートに遅れるから止めるな」と脅し、列車が川越から途中の停車駅を通過して、池袋まで来てしまったと言うエピソードがあります。

戦後復興によって沿線の宅地開発が進み、二代目根津嘉一郎は「鉄道をサービス業にすべく、百年の大計を編もう」と宣言し、複線化や車両の増結を行い、輸送力の増強を図りました。1962年に営団地下鉄(現在の東京メトロ)日比谷線との相互直通運転を開始し、通勤需要が拡大しました。当時、通勤車の主力車両だった7800系は、重量が重く性能も優れていなかったため、列車密度を増大することが限界で、軽量の高性能電車を開発する必要があったため、1963年に8000系が就役しました。需要増に対応するために、東武鉄道は北千住ー北越谷間の複々線化に着手し、東京のベッドタウンを通る野田線も、輸送人員が増加したため、1972年から両数を順次4両から6両へ増結し、1973年までに日光線合戦場―東武日光間を複線に戻し、戦後の厳しい復興をけん引しました。

1987年8月25日に東上線は、営団地下鉄(現在の東京メトロ)有楽町線と相互直通運転を開始し、野田線は、沿線の宅地化により沿線人口が増加していたため、輸送力の増強を早急に図る必要がありましたが、当時は単線区間が多く、増発には限界があったため、野田線の車両は20m車で統一する形で、輸送力の増強を図りました。北千住駅は、通勤・通学時間帯には混雑が激しく、ホームから人が溢れるほどであったため、1階を伊勢崎線、2階をコンコース、3階を営団地下鉄(現在の東京メトロ)日比谷線とする3層構造に改良し、重層化によって混雑による危険は低減しました。

地下鉄半蔵門線への相互直通運転を前提に開発された30000系

二代目根津嘉一郎は、日本民営鉄道協会会長や経団連常任理事など、経済界の要職も多く務め、初代の教えである質実剛健を守り、鉄道事業中心の経営を忘れずに実行し、資材を投じて芸術保護や教育事業にも取り組みましたが、高齢のため、1994年に社長を退任し、会長となり、1999年に息子の根津嘉澄氏が後を継ぎ、社長に就任します。その後、二代目根津嘉一郎は、2001年に相談役となり、2002年に心不全のため、88歳で亡くなりますが、2003年に営団地下鉄(現在の東京メトロ)半蔵門線と相互直通運転を開始しました。これにより、北千住駅の混雑はさらに緩和され、営団地下鉄(現在の東京メトロ)半蔵門線との相互直通運転に先立ち、1996年に東武鉄道では初めて、主幹制御器(マスコンハンドル)にワンハンドルマスコンを採用した30000系が導入されました。

沿線の交流人口を増やす試みとして、将来のグループ価値を向上するために、業平橋駅貨物列車ヤード跡地に東京スカイツリーを建設しました。これに合わせて、2012年に業平橋駅をとうきょうスカイツリー駅に改称し、押上駅にはスカイツリー前の副駅名称が付けられ、伊勢崎線浅草・押上ー東武動物公園間には、東武スカイツリーラインの愛称を付け、車両のリニューアルを進め、6050系を改造した観光用展望車の634系スカイツリートレインが運転を開始しました。

新型車両の導入も進め、2013年に野田線では初の新造車両である60000系を導入し、2014年には、野田線に東武アーバンパークラインの愛称が付けられ、日比谷線直通列車には東京メトロ13000系と共通設計の70000系が導入されました。

下今市駅構内で、転車台の遺構が確認されたことをきっかけに、JR北海道からC11形207号機を東武博物館が借り受け、2017年8月10日から「鉄道産業文化遺産の保存と活用」・「日光・鬼怒川エリアの活性化」・「東北復興支援の一助」を目的として、鬼怒川線下今市ー鬼怒川温泉間でSL大樹の運転を開始し、東武鉄道では51年ぶりに蒸気機関車が復活しました。2017年には、山田コレクションのC11型1号機が日本鉄道保存協会から東武博物館へ譲渡され、2018年から大手私鉄では初めて蒸気機関車の復元を行いました。修繕箇所が予想よりも多いことと新型コロナウイルス感染症の感染拡大による影響で、復元作業に遅れが生じ、2020年11月に、東武鉄道が創立123周年を迎えたこととこの123周年が同社のSL事業の転換期を迎える年であることに加えて、日本国内において唯一同一型式の車両による3機体制となるため、車両番号がC11型1号機からC11型123号機へ改番され、2022年に復元作業が完了し、同年の7月から営業運転を開始しています。

東武鉄道の年間利用者数は、埼玉県の利用者が約半数を占めており、自治体と連携して沿線開発を進め、関係人口を増やすことに力を入れています。現在、春日部駅付近では2031年度の完成に向けて、高架化工事が進められており、今後は、春日部駅のジャンクション機能を強化し、東武スカイツリーラインと東武アーバンパークラインの直通運転を実施する予定で、来年度には、東武アーバンパークラインに新型車両80000系の導入が予定されています。根津嘉澄氏は、一家での世襲には限界があると考え、昨年の6月に社長を退任し、現在は、会長として東武鉄道を支えており、電気技術者と運転屋の都筑豊氏が後を継ぎ、社長に就任しています。

昨年の7月に、新型特急車両N100系スペーシアXが営業運転を開始し、人気を博していますが、今年の春に2編成増備することになっており、昨年の秋には、東武博物館所有の動態保存車である8000系8111編成が、有効活用を図るために、東武アーバンパークラインで定期営業列車としても、運用されるようになりました。

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西武鉄道は、前身の武蔵野鐡道が1912年に設立され、1915年に現在の池袋線の一部である池袋ー飯能間が開通し、当時はドイツ・クラウス社製の第1号機関車が活躍していました。当時の池袋駅周辺は、まだ繁華街が形成されておらず、沿線も田畑や雑木林が広がる土地で、当時、アメリカで電気鉄道が成功し、日本でも地方鉄道で電化ブームが起こっていたことと1923年に起きた関東大震災により、都心で被災した人が、郊外へ移転する傾向が見られたことなどから、武蔵野鐡道は沿線の開発を見込んで、電化と複線化を進めました。しかし、世界不況により、沿線の開発は思うように進まず、武蔵野鐡道の経営は悪化していたため、企業家の堤康次郎が経営の再建に乗り出します。沿線の総合的な開発を目指して経営の多角化を進め、1940年に社長に就任し、第二次世界大戦の戦時下では、ガソリンが不足し、人出もなかったため、東京都の便所の汲み取りのためのトラックが、僅かしか動かなかったため、排泄の量に追い付かず、東京都民を悩ませていました。事態を深刻に見た、東京都の首長でもある大達茂雄長官は、堤康次郎に相談し、高田馬場駅や池袋駅にし尿を入れるタンクを設置しました。そのタンクに、東京都内の便所から持ち込んだし尿を溜めて、そのタンクからホースで、一段低い密閉した石油タンクのような専用貨車に流し込んで輸送し、終着駅にはタンクを造り、到着するとその貨車のバルブを開けて、タンクに移し、し尿を肥料として農家に渡しました。し尿を輸送する列車の運転は、1日の運転が終了した後の深夜に行い、し尿を運び終わった後は、貨車の上に特別の台を付け、農村から東京都内向けの輸送が出来るようにしていました。これに関して、社員から反発も起こり、退職届を出す者も出て、堤康次郎は「糞尿のような仕事というが、おのれはきたなくなって、人をきれいにすることでこれくらい高尚な尊い仕事はない」と説き、思いとどまらせたと言います。武蔵野鐡道は、敗戦直後の1945年に西武鉄道と合併して、西武農業鉄道に改称し、翌年の1946年11月15日に現在の西武鉄道に再改称しました。1950年に、箱根の開発を巡って西武鉄道傘下の駿豆鉄道(現在の伊豆箱根鉄道)と小田急電鉄傘下の箱根登山鉄道との間で、箱根山戦争と呼ばれる紛争が起こり、当時、小田急電鉄は事実上五島慶太率いる東京急行電鉄(現在の東急電鉄)の支配下で、堤康次郎と五島慶太の代理戦争と見られていました。激しい紛争が長期にわたり、訴訟合戦が重ねられ、1961年に駿豆鉄道(現在の伊豆箱根鉄道)が勝訴しています。戦後、西武鉄道は鐡道省から戦災車両を大量に購入し、系列の復興社所沢車輛工場で復旧して、輸送力の増強を図りました。1960年代には、他の鉄道事業者では、WN駆動やカルダン駆動車など高性能車を開発していましたが、西武鉄道は既存車との性能の統一を図るべく、従来の吊り掛け駆動車の増備を続け、6両編成化と8両編成化を東京近郊の私鉄の中でも早く成し遂げ、1963年に10両編成化を私鉄で初めて実施しました。

堤康次郎は、1964年に心筋梗塞で亡くなりますが、息子の堤義明氏が後を継ぎ、1973年に社長に就任します。駅を視察した際に、トイレの壁があまりにお粗末なので驚き、駅のトイレの壁はタイルを張るように指示し、運転士は制帽の顎紐を常時着用することを就業規則で定め、アメリカの経済誌フォーブスが発表する世界長者番付で、1位になったこともありました。秩父線を軽井沢まで延伸するために、ヘリコプターを使ってルートを探すことまで行い、101系が就役するまで、通勤車は赤電と呼ばれるベージュと赤をまとっていましたが、レモンイエローとウォームグレーもしくはレモンイエロー単色の黄色系の塗装で、特急車を除き統一されました。1983年には、営団地下鉄(現在の東京メトロ)有楽町線との相互直通運転を開始し、混雑緩和のために新宿線西武新宿ー上石神井間で、従来線の直下に新線を建設して、線増する計画がありましたが、地下水対策などによる建設費の高騰と少子高齢化の進展で、利用者の減少が予想されるため、1995年に事業中止になり、池袋線は1994年12月の富士見台ー練馬高野台間の高架複々線化を皮切りに、2000年3月に桜台ー練馬間、2003年3月に練馬―富士見台間の高架複々線化が完了しています。

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30000系スマイルトレイン

堤義明氏は、1989年に会長に就任しましたが、2004年3月に西武鉄道による総会屋への利益供与事件が発覚し、引責辞任しました。同年の10月に、有価証券報告書への虚偽記載が発覚し、2005年3月には証券取引法違反により逮捕され、その後の裁判で、懲役2年6ヶ月、罰金500万円、執行猶予4年の判決を受け、西武鉄道は2004年12月に上場廃止になりました。現在は、西武ホールディングス取締役を務めた小川周一郎氏が社長を務めていますが、2006年に持株会社方式によるグループ再編が行われ、西武鉄道は西武ホールディングスの中核を担う企業となり、2008年には新生西武を象徴して、新型車両30000系が導入されました。スマイルトレインの愛称が付けられており、車体は日立製作所の鉄道車両ブランドA-trainの構体を採用し、池袋線の高架複々線区間を大泉学園まで延長することが2005年に決まり、2012年に石神井公園、2015年には大泉学園まで完成しました。

石神井公園駅構内で並ぶ西武鉄道と東急電鉄の車両

2008年に東京メトロ副都心線と相互直通運転を開始し、2013年には、東急東横線・横浜高速鉄道みなとみらい線との相互直通運転も開始しました。かつて、西武鉄道と東急電鉄は箱根山戦争により創業家同士の紛争が起きていたので、西武鉄道に東急電鉄の車両が乗り入れてくることは、昔では到底考えることは出来ませんでしたが、この相互直通運転を通して、過去の壁を乗り越えたとも言えます。2016年2月に、堤義明氏は西武グループの全株式を売却したので、西武鉄道と堤家との関係は、完全に解消されたと言いますが、今でも関係はあるようで、昨年の7月に日本アイスホッケー連盟の終身名誉会長として表彰され、堤義明氏が会長を退任した後も西武鉄道の運転士は、制帽の顎紐を常時着用しています。

東京メトロ有楽町線に乗り入れるS-TRAIN

2014年に西武ホールディングスとして再上場しますが、2017年3月26日に行われたダイヤ改正では、初のロング・クロス転換シート車である40000系が就役し、有料座席指定列車のS-TRAINとして、平日は所沢ー豊洲間、土休日は西武秩父ー元町・中華街間で運転し、2018年3月10日から西武新宿ー拝島間で、拝島ライナーとしても運用されています。主電動機(モータ)に西武鉄道では初めて、全閉型永久磁石同期電動機(PMSM)を搭載し、メンテナンス性の向上と電力消費量や走行音の低減を図り、鉄道車両では初めて、内閣総理大臣賞を受賞しました。

2019年3月16日には、新型特急車両001系Laviewが就役し、前面は国内の鉄道車両では初めて、曲線半径が1500㎜の三次元曲面ガラスを採用しました。池袋ー西武秩父間で運用し、西武鉄道の黄色い電車というイメージから脱却してから、四半世紀近く経ちますが、なんとも高級感を漂わせる上品な仕上げとなっており、地下鉄への相互直通運転に対応した設計になっています。最近では、新型車両40050系の増備が進められており、2030年度までに全車両をVVVFインバータ制御の車両にする予定で、鉄道業界全体で推進している脱炭素社会実現への貢献および西武グループ環境方針に基づき、先月から再生可能エネルギー由来の電力で列車の運転を行っています。

両社は、乗車ポイントサービスを始めたり、新型車両の導入を進めるなど、沿線価値の向上に向けた取り組みを進めていますが、少子高齢化が進んでいる今日において、鉄道の重要性は高まっているので、誰もが快適で健やかに過ごすめに、これからも鉄道事業を中心に安全・安定輸送を第一で、サービスを提供して欲しいです。

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参考文献

鉄道まるわかり004 東武鉄道のすべて「旅と鉄道」編集部株式会社天夢人2019年4月7日発行

「東武鉄道8000系を顧みて」花上嘉成 鉄道ピクトリアル2016年3月号株式会社電気車研究会 鉄道図書刊行会平成28年3月1日発行

東武博物館だより2018年9月号 一般財団法人東武博物館平成30年9月1日発行

「東武グループ長期経営構想・東武グループ中期経営計画2017~2020」2017年5月12日東武鉄道株式会社

「一家での世襲には限界がある 東武鉄道社長交代に隠れた思い 根津嘉澄 東武鉄道」経済界ウェブURL(https://net.keizaikai.co.jp/69358)2024年3月11日参照

鉄道まるわかり006 西武鉄道のすべて改訂版「旅と鉄道」編集部株式会社天夢人2022年12月28日発行

西武王国の興亡 堤義明最後の告白 大下英治株式会社さくら舎2022年6月11日発行

「日本の鉄道この10年を振り返る」土屋武之 鉄道ジャーナル2020年1月号株式会社鉄道ジャーナル社2020年1月1日発行

「西武堤一族が会社を失った日」日本伝承URL(http://www.nihon-densho.co.jp/column/?p=2230)2024年3月11日参照

2016年3月期 第3四半期決算実績 概況資料 2016年2月10日株式会社西武ホールディングス

「2023年度 鉄道事業設備投資計画 でかける人と、はたらく人の満足度向上へ 安全追求・環境対策・魅力向上・技術革新へ総額251億円」2023年5月11日西武鉄道株式会社ニュースリリース

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