幻の東武アーバンパークラインと東京メトロ東西線の相互直通運転計画

運転
東武アーバンパークライン

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かつて、東武野田線(現在のアーバンパークライン)と営団地下鉄(現在の東京メトロ)東西線が、相互直通運転を行う計画がありました。

1968年に提示された都市交通審議会答申第10号により、5号線:営団地下鉄(現在の東京メトロ)東西線の延伸計画が「中野方面より高田馬場、飯田橋、大手町、茅場町、東陽町及び西船橋の各方面を経て東武鉄道野田線方面に至る路線」として計画されました。この計画では、営団地下鉄(現在の東京メトロ)東西線がどの辺りまで延伸するかについては明確に示されておらず、当時、東武鉄道では営団地下鉄(現在の東京メトロ東西線)と相互直通運転を行うことを検討していました。しかし、1972年に提示された都市交通審議会答申第15号により同線の延伸計画が「中野ー高田馬場ー飯田橋ー大手町ー東陽町ー西船橋ー北習志野ー勝田台」に変更され、その後、両線の相互直通運転計画は立ち消えになりました。

両線の相互直通運転計画が立ち消えになった理由について詳細は明らかになっていませんが、この計画が実現していた場合、両線の運転体系はかなり違う形になっていたかもしれません。

参考文献

「東武鉄道の現状と将来対策」土井清 鉄道ピクトリアル1972年3月号臨時増刊号株式会社電気車研究会 鉄道図書刊行会1972年3月10日発行

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